【邦楽バラードの名曲】
翳りゆく部屋1983年10月20日(木)
ボクらはファミレスを出ると、また海沿いのサイクリングロードを歩いた。秋の静けさに満ち溢れ、純白のベールに包まれているような淡い雲の色を湛えた海には、微かな白波すら揺らめいてはいない。
雲り空のあいだから落ち始めた陽射しは霧のように柔(やわ)く、まだ午後3時をほんの少しばかり過ぎただけなのに、街の空も、この海の色も、まるで一緒になって夕暮れの訪れを急(せ)いているかのようだ。本当は海岸でギターを弾こうかと思っていたけれど、少しだけ砂浜を吹く風が強くなってきている。
「あっ! そういえばお勧めの場所があるんだよ」
と、ボクがいうと、
「お勧めの場所?」
艶やかな黒髪を、淡い金木犀(きんもくせい)の香りに巻き上げられて、ユカリは車椅子から振り返る。
「そう。誰もいなくてね。まさに、デートには最適なところがさぁ」
ボクは「ニヤッ」と笑って、そういった。
「キャーッ! ちょっとコワいですけどね。でもどこですか? そこって」
ユカリは嬉しそうに訊ねてきた。
ボクがいった「お勧めの場所」、それは、この街で川澄マレンと一緒に過ごした最後の場所、――古い大木たちに囲まれた、あの神社のことだ。――
晩秋の予感を滲ませながら吹き抜けてゆく風のなかに、あの夏の日を偲(しの)ばすような、色めく街の薫香は、なにひとつ感じられなくなっていた。ボクたちは、草木が枯色に染まりながら、ゆっくりと時をかけて眠りに就こうとするときに、少しだけこぼれ落とす、まどろみの吐息のなかに包まれている。
「ホントに静かなとこですね。シーナ君って、まさか痴漢とかじゃないですよね」
ユカリは、そういって笑う。
「オレ? さぁどうかな」
「え~っ! 襲ったりしませんよね。私のこと」
と、ユカリは嬉しそうな顔で石段に座りながら、揺らめく枯葉たちが「カサカサ」と、こすれ合って、頭上を覆いつくしている大樹の枝先を見上げた。
ボクはミニギターをケースから取り出し、少しペグを捻(ひね)りながら弦をチューニングしなおす。適当なコードを指先で軽くストロークしながら、マレンと、この神社にきていた日のことをぼんやりと思い出していた。
(マレンが久しぶりに学校に登校してきた7月のあの日、ボクは数学教師である『白ブタ』の髪の毛を引きちぎって、担任から会議室に呼び出されたんだ。そういえば、アイツってあれから授業中に全然ボクのほうを見なくなったな。――そして放課後、久しぶりにマレンと再会し、ボクらはこの場所にきたんだ)
無意識のうちに、何度もコードチェンジを繰り返してゆくと、やがて、ストロークは【A】コードに落ち着いた。何小節か【A】コードを爪弾いたあと、ボクは静かに歌い始めた。
松任谷由実が、当時、まだ荒井由実名義だった時代にリリースされた初期ベストアルバム『ユーミン・ブランド(YUMING BRAND)』の、エンディングに収録されていた「翳りゆく部屋」――小学校の頃、このアルバムを親戚の家で聴いたとき、ものすごく「いい曲だな」って思ったんだ。
オリジナルには、ときどき浮遊感を漂わす難解なコードが混ざるみたいだけれど、そこは似たようなコードで誤魔化す。ボクのその歌声は、やがて夕空へと舞い上がり、神社を囲う背の高い樹々の枝先に揺らぐ枯葉を、風とともに揺すっていく。――
(あの日、急にマレンから『鎌倉に転校するかもしれない』っていわれて、ものすごく動揺したんだよな。『アタシは、カミュちゃんとずっと一緒にいたいのに、――』そういって泣き出したマレンに、ボクは、はじめて自分の気持ちを言葉にしたんだ。『オレだって、川澄と一緒にずっといたいよ!』って、――だけど考えてみれば、ボクから彼女に伝えられた言葉って、それだけしかなかったのかもしれない。それ以外には、言葉で彼女にホントの気持ちを伝えたことなんて一度もなかった)
「シーナ君――」
ユカリの呼びかけにふと我に返ったとき、ボクはもう歌っていなかった。けれど左手の指先は、ずっと弦を押さえたまま、小さくストロークし続けていた。
「シーナ君って、どうして修学旅行に行かなかったんですか?」
ユカリはそう訊ねた。
「あぁ、なんか面倒臭くなってね。別に寺とかにも興味ないし」
「でも、この神社は好きなんでしょ?」
と、ユカリは笑いながら言葉を続けた。
「私、学校からは『修学旅行に参加するように』って、いわれてたんですけど、……でもね。結局、私のせいでみんなにいろいろ迷惑かけちゃうから、いろんなところに見学に行っても、きっと私だけ遅れちゃうでしょ。それにおトイレもお風呂も、きっとみんなの迷惑になるから、……ホントは行きたかったんですけどね。でも学校もホンキで私にきて欲しいとは思ってなかったみたいですから」
「なんかいわれたのか? 教師たちに」
ボクはユカリに訊ねた。
「ううん。その逆です。私とお母さんとでね。担任の先生に、『もし、迷惑がかかるようなら参加しないほうがいいんじゃないですか?』っていったら、なにもいわずにそのまま承認されちゃいました。だから、先生たちも多分『ホッ』としたんじゃないですかね。私が『どうしても行きたい』とかってワガママをいわなかったから」
弦をつま弾いていたボクの右手が止まる。
空はすっかり晴れ渡り、さっきよりも遥かに深く眩しい夕暮れが、西の上空に漂う雲を赤褐色に染め始めていた。
ユカリは燃えるような雲の色を見上げながら、言葉を風にくゆらす。
「実はね。こないだメイも『修学旅行に行くの辞める』って、いい出してね。メイは、ほかの理由をいってたけど、きっと、彼女のことだから、私ひとりだけ旅行に行けないのが可哀想だと思ったんじゃないですかね」
その風は柔らかく、ユカリの言葉を包み込む。
「でも、私のためにこれ以上、メイがなにかを犠牲にするってことが、なんだかすごく辛いんです。彼女は私よりも、もっと酷いイジメを小学校のときからずっと受けてきたのに、いつも私のことばかり気にしてくれて、……自分のやりたい事なんて、いつだってずっと後まわしにしてばかりいたの。だから『メイは絶対、修学旅行に行ってね』って、こないだ、ちょっと怒っちゃった。私のことを気にしてくれてるのはすごく嬉しかったけど、同じくらいになんだかすごく苦しかったんです」
ユカリの小さな背中が微かに震えている。
「だからね、シーナ君。いま私にできることは、全部メイにしてあげたい。ううん。――なにかひとつだけでもいいの。ひとつだけでもいいからね、なにかしてあげたいんです。メイからもらってばかりじゃ私、もうイヤなんです。だから、もしシーナ君がメイのことを好きじゃないとしてもね、私がちゃんと好きにさせなきゃいけないんです。……それくらいしか私にはできない。もしおせっかいと思われてもね。私が、――」
「大丈夫だよ」
ボクはユカリの震える細い肩に、軽く左手を乗せた。
「オレは李さんのことを好きだと思う。もしいつか、彼女も同じ気持ちなんだと思えて、2人の気持ちが自然と素直に向き合えるんならば、きっと倉田さんが願ってる通りになるんじゃないかな」
その言葉にユカリは、一瞬、つぶらな瞳に喜びを浮かべた。
「だけどね。オレにはまだ、前の彼女への想いが残ってるんだよ。未練じゃなくって、きっと後悔としてね。――そのことを、もし李さんも気づいてるんなら、たぶん、いまはまだ無理だよ。その想いが消えない以上、まだ李さんに対してオレからなにかをいえるような立場じゃないし、それにきっと彼女もオレとは付き合わないと思う」
ボクが、語り終えると、ユカリはまた哀しそうな眼差しでボクの顔を見つめた。
「でもさ、まだ李さんのことをバンドに誘うのは諦めないからさ。それだけは約束するよ。倉田さん、こないだいってたじゃん。『メイは絶対、バンドに入る』って。オレはね、その言葉を信じてるから。それにさぁ、オレは好きだよ。李さんのことも、……キミのことも」
と、いって、ボクはレゲエ調のリフをストロークし始めた。
「この曲ってさぁ。もしオレたちが、いつかライブ演るときにね、歌ってみようと思ってるんだ。まだタイトルも決めてないんだけど、……そのときは、キミにはちゃんと最前列で聴いてて欲しい。ほかに誰も客がいなかったら、やっぱりちょっと歌いづらいからね。それに、もし、李さんがバンドに入ってくれなくても、倉田さんは、オレらのバンドのマネージャーをやってくれるんだろ?」
そういって、ボクがユカリを見つめると、彼女は静かに微笑みながら、やがて大きく何度か小さく頷いた。
「シーナ君、もしかして修学旅行に行かなかったホントの理由って、メイと同じだったんじゃないですか? だって似てますからね。メイとシーナ君は」
と、ユカリはいいながら、その小さな顔をボクの左肩にそっと寄り添わす。そして北風にさらわれてゆく落ち葉を見つめてささやいた。
「こないだ私がいったこと覚えてますか? 『いつも自分のことよりも、誰かのことを考えてるみたいな人』って、――メイがシーナ君に対して抱いてる印象なんですけどね。でも、私から見れば同じなんですよ。メイもシーナ君も、……メイもね、いままでずっと、自分のことよりも、私のことを考えてくれていたの。だから私にとっては、ものすごく大切なんですよ。メイも……シーナ君も、2人とも、……そして、そのどちらからも私に与えられているこの『優しさ』も」
ボクはなにも答えずに歌い始める。そう、この夕暮れ色した街の空へ向かって、――
【ALOHA STAR MUSIC DIARY / Extra Edition】
翳りゆく部屋 - スターダストレビュー
カヴァーアルバム『ALWAYS』 2008年
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