【邦楽バラードの名曲】
今宵の月のように浜野ナオは今年に入り、中目黒のアパートで一人暮らしを始めていた。
中目黒の駅から東横線のガードに沿って祐天寺方面へと向かった
ちょうど2駅の中間あたりに真新しい彼女のアパートはあった――
合コンで出会って、何度か彼女と二人で飲みに行ったりしているうちに、
ボクらはなんとなく”そんな感じ”の間柄になっていた。
といっても、互いの年齢からしてみれば、
いまだに割とプラトニックな付き合い方が維持されたままで、
男女の関係に容易く陥ったというわけでもない。
ナオは、去年ボクと初めて飲みに行ってから数日後、
付き合っていた年上の彼氏と別れたらしい。
結局、「その彼の子供が出来た」ということは黙ったままで別れたと。
いつだか、うっすらと微笑みながら話していた。
ボクは、その翌週あたりに彼女が下した”決断”に対しては何も言わなかったし、
彼女が自らそのことを決断したあとも、特にボクらの関係に変化などはなかった。
それは、あくまで彼女が……
いや厳密には彼女とその彼とで決めるべきことだと思ったからだ。
去年まで、彼女は新宿始発の私鉄の沿線にある実家に住んでいた。
したがってボクらは大抵の場合、その電車の終電時間までしか
一緒に過ごすこともなかったんだ。
”ただ一緒に飲んで笑い合う”
そんな程度のボクらの関係は、おもいのほか長く続いていたんだろうと思う。
だから、ナオが知り合いの大家のツテで中目黒に引っ越したときも、
”今までよりも、彼女と一緒にいられる時間が多少は増える”
ただ、それくらいにしか思っていなかったんだ。
ある日の金曜日。
ボクらはいつものように互いの仕事が終わってから渋谷駅で待ち合わせ、
何度か一緒に来たことのある飲食店で数時間ほど過ごした。
やがて、ボクがそろそろ終電の時間を気にし始めたとき、ナオは微笑を浮かべ、
独特のオリエンタリズムを漂わす丸みを帯びたフォルムの、
まるで大理石の彫刻像のような瞳を緩やかに細めながらボクを見つめてささやく。
「今日って、やっぱり帰らなきゃダメ?」と……
無論、ナオのその言葉に含まれている意味合いはすぐに理解できた。
ボクはその頃、付き合っていた彼女と都内で半同棲のような生活を送っていたから、
「どうしてもボクがそこに帰らなければならないのか」どうかを、
程好くまぶたの力が抜けた、柔らかく大きな眼差しで問いかけてきたんだろう。
去年、ナオと出会ってからは、まだ一度も朝まで一緒に過ごしたことなどはない。
そう。互いにプラトニックさを保つことで、ボクらの関係は
あくまで「飲み友達同士」として括られ、躊躇うことなく継続されていたに過ぎない。
かといって、それがイコール「彼女に惹かれていない」ということでは無論ない。
それは、あくまで”理性の強さ”の問題であり、
ボクがどうにか理性的になろうとしていたというだけのことだ。
一度踏み越えてしまえば、まるで風に彷徨う風船のようにして、
目的なんて持たず本能の赴くままに、ボクの心がどこまでも
彼女のほうへと飛んでいってしまうことなど、すでにずっと前から分かっていた。
結局ボクはずっと、ナオの儚げな魅力に惹かれていたのだ――
うっすらと微笑み続ける彼女の瞳には、
すでに、そんなボクの本当の気持ちなんてものは
とっくに見透かされてしまっていたのかもしれない。
今までナオが何も云わなかったのは、
それはきっと彼女なりの理性だ。
互いに無理やり抑え込んできた、そうした男女間の本能的な希求なんてものは、
握り締めたその理性のたずなから、どちらか一方が手を離してしまえば、
もはや片方だけで支え続けることなどは出来ない。
不自然なくらい健全に保たれてきた距離感を、
どちらか一方が踏み越えた瞬間に、その距離そのものが完全消失する。
ずっとその距離感を保つために心で反発させ合ってきた
同一極の磁極は、ナオの言葉によってバランスを失い、
互いをN極とS極へと変化させながら瞬く間に二人を引き寄せたのだ。
あくまでそれが「自然な感情」なのだといってしまえば、
たぶん、きっとそれまでのことだろう。もはや、それ以上でもそれ以下でもない。
ボクらはその瞬間、相手に対する想いを「恋愛感情」へと昇華させてしまった……
ただそれだけのことだ。
恵比寿から地下鉄日比谷線に乗り、ボクらは中目黒駅で降りた。
ナオのアパートのほうへと向かう東横線のガード下の薄暗い通り沿いに、
一軒のCDショップの明かりを見つけた。
「こんな時間まで開いてるんだね」
ボクは独り言のように呟いた。
「ちょっと入ってみる?」
と、ナオはその小さな店の扉を開く。
正直、さほど売れてるようにも思えない店内の新作コーナーに
数枚並べられていたエレファントカシマシのニューアルバムに目が止まる。
ボクはCDを手にとって裏面を眺めていた。
やがて、店内を見回し終えたナオが脇からそれを覗き込む。
「この『今宵の月のように』って、結構いい曲なんだよね」
と、ボクがジャケットの裏面を眺めたままで云うと、
ナオのしなやかな指先が、ゆっくりとボクからそのCDを取りあげた。
「じゃぁ買おうかな?」
と、彼女は笑った。
店を出ると、ふたたびボクらは東横線のガード下の薄暗い通りを歩き出した。
さっき見たアルバムジャケットのようなその青白い景色が、なんだかものすごく
寂しげに思えた。
それはきっと、付き合っている今の彼女に対する罪悪感と、ナオが時折漂わす
淡い刹那さが入り混じりながらボクの心に生み出した風景そのものだったのかもしれない。
街明かりの届かない夜空に星はほとんど見えなかった。
ただ南西の方角に、美しい満月だけが光輝いていたんだ。
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今宵の月のように - エレファントカシマシ 9thアルバム『明日に向かって走れ -月夜の歌-』 1997年 |
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